夜学バーに行ってきた話

 知人からの勧めで東京は湯島にあるバー、その名も夜学バーに行ってきた。

 

 東京・湯島の夜学Bar brat

 

 夜学バーの夜学というのは、あくまで広い意味での知識を身につける場ということらしく、目的が限定された場所ではないことを示す意味合いで店主が付けたようだ。

 (詳しくは上記HPのテキスト群の中の「遠心的な場を目指して」を参照されたい。)

 とは言っても私も実際にドアを開けて入るまで、どういう場所なのか全くイメージがつかめなかった。しかし、入ってみるとそこは至って普通のバーで、個人的に落ち着く雰囲気を備えた空間だった。そこまで広くはなく、おそらくカウンターに7、8人入れば満席になるだろうその店内はそれでも狭さをあまり感じさせない所がある。椅子も比較的大きく座りやすい。

 金曜日の夜だから何人か客がいるだろうと予想して身構えていたが、いざ入ってみると客は私一人だった。その日バーテンとして働いていたのは大学生の女性でオザケン岡崎京子が好きだという知的な感性を持つ人だった。夕方5時から勤務していたがまるで人が来ないので退屈すぎて関ジャニ∞のライブDVDを二周したという。私はなぜこの店を知った経緯などを彼女に話しながら、注文した深煎りのアイスコーヒーを飲んで時間を過ごした。彼女はその間、オザケンの天才性について語ってくれた。

 その後、お客さんが一人入ってきて、オザケンの話で盛り上がっているのを見ながら私は短歌やプレイリストが書かれたノートを見ていた。このバーでは短歌を書くと鍛高譚が、プレイリストを書くとウォッカがタダで飲めるという。私は懸命にプレイリストを考え、短歌をお題に沿って書き出した。

 最初は一人だった店内もやがて人がちらほら入るようになり、最終的には私含めて5人の客が座を占めていた。ジョージ秋山について熱く語る人もいれば、ジャンプ黄金時代の復刊号を手に取り、ジャンプ展の感想をバーテンに話す二人組もいた。この二人は湯島界隈を散策していた際に夜学バーを見つけ、ふらっと立ち寄ったらしい。そうした漫画の話で盛り上がる中、それでもノートに書きつける言葉を探していた私は周囲からすると不思議に思われたみたいだ。 

 

 話は変わるが、先ほど紹介した「遠心的な場を目指して」というテキストの中で店主は求心的と遠心的という言葉の違いを書いている。私は、以前に別のバーで知り合った人が夜学バーを教えてくれたこと、そして、上記テキストを読んで感銘を受けたことをバーテンが一対一でいる時に話した。すると彼女が言った。「それで言えば〇〇(知人と出会ったバー)は求心的な場だと思うんですよ。一方でここは遠心的ですよね」

 私はその言葉を聞いて、なるほどと思った。そして、求心的であることの息苦しさについて考えた。もちろん求心的であることは社会にとっても個人にとっても必要なことだ。というか、それが無いと生活できない。しかし、一方でそれが身分の違いや格差を生むように感じてしまう。例えば、求心的な場では先生と生徒、講師と聴衆というように上下の関係が生まれやすい。これは例えば学校や会社では必要なことではあるが、必ずしも飲みの場などで求められることでもないだろう。実際、飲みの場で講釈を垂れてくる人間に辟易したことが何度もあるが、こうした振る舞いは求心的な社会での価値観を引きずったものと言える。

 しかし他方で思うのは、別にどういう場所であろうと人間同士が関わり合い接していく中で自然と力関係は生まれていくということだ。だから、夜学バーであろうとどこであろうと求心的にならざるを得なくて、程度の差でしかないのではないか。

 夜学バーに行ったことで私は改めて、自分がどういう風に人と接していくか、どのように人々の中に溶け込みたいのか考えるようになった。そうすると私が確実だと思ってきた地盤は揺るぎ、急に周りの物事が遠く感じられるようになる。それでも私は自分が何をした方がいいかは、おぼろ気ながら知っている。その勘を頼りに、また夜学バーのような遠心的な空間に身を投じようと思う。結局、書き終えたのが遅すぎて、鍛高譚もウォッカも飲めずじまいになってしまったしね。

 ただ、こうしたことはどれも私の考えすぎかもしれない。