成功についての話

 どうも、いかがお過ごしでしょうか。僕です。

 2018年が始まり、早くも二週間近くが経とうとしていますが、皆様の進捗はいかがでしょうか。僕はあいかわらずNetflixで海外ドラマを見る日々です。最近はストレンジャー・シングスのシーズン2にはまっています。マイクたん、ハァハァ。*1

 さて、最近買ったKindle Fireで色々と本を読んでいるのですが、これが思った以上に読みやすくて読書がはかどって楽しい。何より読みたい本がすぐ読めるのが最高ですね。

 最近はとにかく気になったらとりあえず買ってしまうのですが、その中でも買ってよかったなと思うのはエリック・パーカー著 / 竹中てる実訳『残酷すぎる成功法則』という本です。監修は『言ってはいけない』などのベストセラー本を持つ橘玲です。

 実はこの本、まだ半分も読んでないんですが、内容が濃すぎて既にお腹一杯の感もあります。

 さて、この本がどういう本かというと、成功するために必要とされてきた常識について実際に成功した人間の実例から検証し、どうすれば人は物事をやり遂げ、成功をつかむことができるのかを明かしたものです。

 例えば、通常はネガティブな要素を持った人間は避けられがちですが、緊急時にはそうした人間の方がそのユニークさを活かして、むしろリーダーとして力を発揮することを説いたり、世間的には悪い人間の方が大きく成功するように考えられているが実際はいい人間の方が長期的には成功を収める可能性があるなど、従来の視点とは違った角度からこれら成功に関する法則を検証しています。

 こうした内容自体は他にも類書が数多くあるとは思いますが、本書の強みは実際に行われた実験や調査の結果を基にした成功に関する実用的な知見の数々です。

 例えば、仕事で成功を収める上で上司に気に入られることは業務での働き以上に重要であると本書では指摘されています。

スタンフォード大学ビジネススクールのジェフリー・フェファーによると、ボスの自分に対する評価を管理するほうが、仕事での頑張りよりはるかに重要だという。上司に好印象を与えた者は、より懸命に働いたが上司への印象を気にかけなかった者より高い勤務評価を得ることが調査で証明された。

 また、上司へのゴマすりは例えそれが見え透いた嘘であったとしても効果を発揮するという指摘もあります。しかも、調査によれば、お世辞が逆効果になる限界というのは見つかっていないそうです。つまり、あなたが上司に見え透いたお世辞をいくら言おうがそれはマイナスにならず、言えば言うほど効果的だということです。

 こうした身近ではありながらも、成功に欠かせない細かい知見が本書では数多く紹介されています。

 グリットのような最近になって提唱されるようになった概念についてもカバーしているのも本書の強みの一つです。グリットは苦境にあっても物事を成し遂げる力のことを指すものですが、このグリットを持つ人間はそれだけでなく、楽観的な人生観を持ち、人生の満足度が通常の人間よりも高いことも指摘されています。

 楽観的な人間が成功を収めやすいというのは、別の事例でも指摘されています。例えば営業マンとして成功を収めるためには対人的なスキルだったり頭の回転の速さなども重要だと思われますが、実際には楽観主義かどうかの一点に絞られるということです。こう聞いてもいまいち信じがたいですが、保険の外交員についての研究によると「楽観的傾向で上位10%に入った外交員は、悲観的傾向で上位10%だった者よりも売り上げが88%多い」そうです。ほとんど倍近い売り上げの違いがあらわれるというですから驚きです。

 どうして楽観主義は成功を収めやすいのか? アメリカ海軍の調査によるとグリットを持った人々が逆境に耐える時に行っている共通の習性があり、その一つに「ポジティブな心のつぶやき」があるそうです。

人は毎分頭のなかで、300~1000語もの言葉をつぶやいているという。その中にはポジティブな言葉(「きっとできる」)も、ネガティブな言葉(「ああ、もう我慢できない」)も含まれている。そして前向きな言葉は、私たちの精神的な強さややり抜く力に大きなプラスの影響をもたらすことがわかった。

 また、海軍の研究によると水中で行われる爆破訓練(BUD/S)志願者に対して自分にポジティブに語りかけるように説き、他の精神療法と合わせて指導した結果、訓練の合格率が10%向上したとも言います。ちなみにこのBUD/Sは海軍特殊部隊シールズに入隊するための訓練なのですが、本書で紹介されている事例だと志願者256名のうち、16名しか合格できないような非常に過酷なものとして知られています。こうした肉体の強靭さを要求されるものでさえ、ポジティブな心のあり方が影響を与えるというのは、先ほどの外交員の営業成績の話と併せて考えると興味深いですね。

*1:今ではもうこういう言葉も死語ですね…

主にSpotifyの話

 最近、Spotifyの有料プランに加入しまして、色々とアプリ内で音楽を聴いています。もともと、こうした配信サービスにさして興味もなかったのですが、ふと興味本位で契約したところ、劇的に音楽リスナーとしての人生が変化しました。

 もともとは70年代の洋楽が好きであれこれ聞いていて、未だにJoni MitchellとかCarol Kingばっかり聞いていて、最近もEverly Brothersを聞いては「やっぱり、この頃が一番だな」と頷くぐらいの古いタイプのリスナーなので、Spotifyと出会うまでは最近の音楽事情とかほとんど知りませんでした。Suchmos? chomoshじゃなくて? と言った具合でした。

 とまあ、そんな感じの人間が今ではSign Magazineを読みながらYoutubeでMoses Sumneyやシャムキャッツを聞いたり、Twitterで音楽に詳しいアカウントをフォローして例えばNai Palmみたいなアーティストの情報を得たり、すっかり意識高い系リスナーになりつつある現状は我ながら少し恥ずかしく感じるぐらいです。

 ただ、今までだと何か新しい音楽を聴きたいと思っても、Youtubeで流行りの音楽を聴こうにも何がいいかよく分からないし、TSUTAYAタワレコの棚を見て気になったアルバムを視聴して借りるかもしくは買うみたいなスタイルは徐々に面倒になってきて、新譜にはまるで手を付けていませんでした。

 一方で、SpotifyだとバイラルTop50のようなランキングで何が今きてるのかを知ることもできるし、ニューリリースされたアルバムはいち早く聞けるのでわざわざTSUTAYAなどに行く必要も無くなりました。おかげで改めて音楽が多極化している現状に向き合えているし、インディーロックの分野でもまだまだ新しく刺激的なアーティストが山のようにいることも分かってきました。

 こうした変化はSpotifyのような配信サービスがあればこそですが、これは何も音楽に限らず、小説や映画にも言えることなのかなと思います。例えば、小説ならKindleスマホにインストールすればすぐに読みたい本が読めるし、出かけた先で暇な時間に海外ドラマが見たいと思えばNetflixが見れる。こうしたプラットフォームの変化は当然それを享受する読者や視聴者に影響を与えないわけがなく、必然的に今の流れを意識するようになります。つまり、触れる世界が広がっていく訳ですね。

 田中宗一郎氏がここで言っているように今ではTwitterなどで最新の情報が広まり共有されていく中で、昔のように実際にその場に行って見たり聴いたりする必然性は下がったと言わざるを得ません。映画館はそうした場として未だにありますが、これも5年、10年すれば状況は変わるでしょう。これが意味するのはデータとしてやりとり出来ないものは今後広まりにくいということです。なぜなら今では娯楽とは一瞬でアクセスできてすぐに見たり聴いたり出来るデータのことを指すからです。

 これはもちろん、アーティスト側にも大きな影響を及ぼす問題です。一方でそれを享受する側からするとまさに天国と言える状況です。だって、ついに家から一歩も出なくてもあらゆるコンテンツが目の前にある訳ですから。

カラオケスナックに行った話

 この前、地元のカラオケスナックに行った。知り合いの人が連れて行ってくれたのだが、3000円で飲み放題歌い放題だったのには驚いた。前に行ったことがあるお店だとその都度お金を払う仕組みになっていたので、長居するなら断然こっちだなと思った。

 私は歌うのは好きだし、割合どの年代の曲でもそつなく歌える方なので、カラオケスナックだと古い昭和歌謡なんかを歌うことが多い。やっぱり、そういう場は年配の方が多いので、バンプとかRADとかは気が引ける。知り合いは思いっきりX JAPANDAHLIA歌ってましたが。

 カラオケスナックって私も今年に入ってから行くようになったのだが、やっぱりお店によって雰囲気はまちまちだ。それこそ前に行ったことがあるお店は今回の所よりも、もう少し仲間内で楽しむ感じで、例えばみんなで同じ曲をワンフレーズごとに歌いついでいって、最後のフレーズを歌うことになった人はテキーラ一杯とかそういうノリがあった。そのノリを期待していくと楽しいのだろうけど、私は結構周りに気を使いすぎる習性があるので、少し落ち着きたい時とかそんなに元気がない時にはどうもうまくリラックスできない。やはり向き不向きはあるのだと思う。

 今回のお店はそこに比べるとまだ放任的というか、そんなに気を使う感じはなく、いい意味であっさりした雰囲気があった。もちろんスナックだから店員の女の人とのやりとりとか他のお客さんとの会話とかもあるけど、そんなに気を使わなくても過ごせることに気づくと、途端に楽になる。周りが盛り上がるような歌を頑張って歌おうとか思うのだが、それも最終的にはどうでもよくなるのが気持ちいい。そんな場所で肩肘張ってもしょうがないのだ。

 とは言っても、店の雰囲気なんてその時の客層にもよるのだろう。ただ、私は3000円で心ゆくまで酒が飲めて歌えるなら、多少のことは気にしないことにした。

ギークラウンジ(仮)に行った話

先週の土曜日、都内某所にあるギークラウンジ(仮)に行ってきた。
ギークラウンジ(仮)はinns氏(@dont_ol)によるプロジェクトであり、概要はここにある。
ギークラウンジ(仮)に興味を持ったきっかけは、元々クラウドファンディングでEQ氏(@chu_so_chu)によるADHDギークハウスプロジェクトに少額投資したのがきっかけだった。ADHDの当事者を集めた共同生活空間という実験的な試みに心惹かれた。EQ氏も言及しているが、やはり当事者同士の方が意思疎通しやすい面というのは確実に存在すると思うし、その部分を強みとして押し出したコミュニティがあるべきだと常日頃から感じてもいた。
もちろん、そうした共同生活にはある程度のリスクは覚悟されるし、通常のギークハウスでもトラブルになるような要素を考慮しないといけないから、運営が二重に難しくなる可能性もある(もっとも、そこまで身構えなくてもいいかもしれない。内部的には。問題は外部に対してどうアピールしていくか、説明していくかだったりする)。
ではそもそもEQ氏のプロジェクトに興味を持ったきっかけは何だったんだろうと考えてみると、月並みではあるが、フジテレビの『ザ・ノンフィクション』だったと思う。
以前そこで居住していたという漫画家の小林銅蟲を通して、何となくギークハウスについては関心があった状態で当番組を見た。そして、pha氏の常人離れしたスタンスに感銘を受けた。pha氏についても以前から名前は知ってたけれど、実際に『ザ・ノンフィクション』を見ることで、具体的な人物像とその界隈を知ることになり、自分の中でその在り方に面白みを感じた。
ギークハウスはpha氏という強烈なカリスマ性を備えたマネージャーがいることによって成立している空間である。それぞれ縁の薄い、社会性というのが面倒で集まっているメンバーばかりだから、そういった人間達を薄いながらも確実に繋ぎ止める求心力を持つ人間がいないとあの形態を保っていくのは難しい。よって、求心力を持った人間や理念を組織の中核に据えることがそうした共同生活を続けていく上では必須であると考えられる。
ギークラウンジ(仮)にはまだ中核にそうした求心力を持ったものがあるようには見えないが、innoce氏はどことなくpha氏っぽい気だるさがあるし、IT関連の知識もあって、なおかつ興味深い人生経験を積んでいて、言い方が正しいかはわからないが、非常にユニークな人物なので、いずれは彼を頼って人が集まるようになるかもしれない。
なお、現在ギークラウンジ(仮)構想のためにスタートアップメンバーを募集しているらしいので、興味ある方は是非。

レールに乗ることについての話

 

 今週の水曜日、とある場所に行ってきた。そして、その時に出会った人と話したことが未だに印象に残っている。今日はその話をしたい。

 彼は京大卒でもともと外資系企業に勤めていたというエリートだが、ある事情でその会社を退職した後は自分が本当にやりたい事を実現するために動いていると言う意識の高い人物だ。

 そんな彼と話していた時、私が高校を中退していると言う話を何気なく伝えると、彼はそれに呼応するかのように、学歴について忌憚のない意見を振るった。曰く、既存のレールに乗ってエスカレーター式に高校→大学→会社と進路を行く同級生を見ながら、結局彼らは自分の意思で動いてはおらず、ただ流されているにすぎないのではないかと疑念を抱いたという。それに比べたら自分で決断して我が道を行く人の方が何倍も「生きている」と。

 私はその話を聞いていて彼の主張に共感できる部分がある一方、それでも大学に行くということには何かしらの意味がある(もしくはあった)のではないかと帰路につきながら考えていた。

 

 例えば彼が批判していた同級生たちはおそらく灘とか洛南とか名の知れた進学校に入学し懸命に勉強して、東大や京大といった名門大学に入って、そのまま大手企業や官庁などに進路を決めるというケースが通常よりも多いと思われる。

 そして、そういう人間に対して面白みを感じないというのが彼の主張だったけれど、それは彼個人の価値観だから別に私がどうこう言えることではない。

 ただ、私にはレールに乗って生きるということが羨ましく思う気持ちがある。

 というのも私は恥ずかしながら高校を中退し、高認を取り直した経歴を持っているが、大卒という肩書きが価値を失ってきていると言われる昨今でも、やはり中退したという事実は重いものがあるし、自分自身それを引け目に感じているところがある。

 いわゆる高校→大学→会社というレールに乗り損ねた私は未だにそのことについて逡巡している。だったら就職すればいいじゃないかと思われるが、私としては何だか今更そこに向かっていくのも少し違う気がするのだ。

 エスカレーター式に次のステップへとするすると上がっていくその流れから一度それてしまうと、仮にそこから這い上がって同じ流れに戻るとしても、必ずしもその事がその人にとってプラスになるかと言うと、そうではないかも知れないと感じるからだ。

 例えば一度その流れから脱落するからこそ気づくこともある。そして、その気づきを生かす道を探るのもまた人生の選択だと考えると、元の流れに戻る事だけが正解とは言えなくなるのではないか。

 もちろん、実際の生活に則して言えば元のレールに戻った方がまず安定した生活を送れる確率が高まるとは思うが、それでもあえてそこに戻らないという生き方があってもいいはずだ。

 それでもやはり、私の心の中のどこかでは皆と同じようなレールに乗りたい、皆と同じような悩みを共有したい、という願望があるように思う。そんなものは幻想に過ぎないのかもしれない、それでもその幻想が依然として私の中で居座っている。

 そうした幻想が歪んだ結果として事件を起こしたり人を傷つけたりするケースもあるだろうが、私はあいにくそこまでのエネルギーを持てていないから結果としてはうだつのあがらない生活を送って、日々を過ごすことになっているのかもしれない。

 

 こうした将来のことについて考え始めたきっかけとしては私が最近転職活動を少し初めてみたことも実は影響している。いい加減動かないとまずいかな、という気持ちでエージェントと相談して、何社か受けてみたのだが、いざ活動し始めてみると、本当にこっちの道で合ってるのか、どうも自信が持てなくなっていた。

 業種自体も好きで選んだというよりは入りやすいという理由だけで選んでしまったこともあって、何回か企業面接を繰り返すうちにどうも私はその職種に対して真剣に向き合う気持ちがないのではないかと思うようになった。それでも面接を受ければ、とりあえず通るので私はそのまま進んでしまってもいいのではないかと考えるようにもなった。

 そこで私はそうした悩みについて先輩に相談することにしてみた。その先輩は業界では大手の外資系企業に勤めていることもあって色々と相談に乗ってくれると考えたからだ。

 私は先輩と席を共にすると開口一番、ある企業の面接が通ったと話した。このまま行けば内定も貰えると思うとも。するとその先輩は私に対してこう言った。

 「もちろん、その会社で勤めて働くことも一つだけど、それよりも違う方向を目指した方が君は向いていると思うよ」

 そして、先輩は私に向いている職種だったり、これからのトレンドになりそうな業界について、知り合いの転職エージェントから聞いてきたという情報を教えてくれた。

 私としてはそうした情報について聞けると思ってなかったので、ただただ先輩の話をずっと聞いていたが、次第に彼が言っていることの本質的な意味について理解が及ぶようになった。

 つまり、先輩は私がレールに乗ることだけにこだわりすぎて、自分を見失っていることを示そうとあれこれ言葉を継いで私を説得しようとしていたのだ。

 しかし、私はそのことで自分が否定されているとはあまり感じていなかった。むしろ「やっぱり、そうだよな・・・」と少し残念な気持ちではあったが全体的に納得していた。こうしたことは、仮に自分の動き方自体は間違っていなかったとは言え、目的地が完全に近い形で正しいものでなければ、まるで意味を成さない類のものだということに私は気付いたのだった。

 そう気づいたのは良かったのだけど、ではその先どこに進むのかということになると暗中模索していくしかなくなる。こればっかりは誰も指南することはできない。暗闇の中を手探りに壁伝いに進んでいくように、前へと歩を進めるしかない。

 ただ、こうしたことはどれも私の考えすぎかもしれない。

夜学バーに行ってきた話

 知人からの勧めで東京は湯島にあるバー、その名も夜学バーに行ってきた。

 

 東京・湯島の夜学Bar brat

 

 夜学バーの夜学というのは、あくまで広い意味での知識を身につける場ということらしく、目的が限定された場所ではないことを示す意味合いで店主が付けたようだ。

 (詳しくは上記HPのテキスト群の中の「遠心的な場を目指して」を参照されたい。)

 とは言っても私も実際にドアを開けて入るまで、どういう場所なのか全くイメージがつかめなかった。しかし、入ってみるとそこは至って普通のバーで、個人的に落ち着く雰囲気を備えた空間だった。そこまで広くはなく、おそらくカウンターに7、8人入れば満席になるだろうその店内はそれでも狭さをあまり感じさせない所がある。椅子も比較的大きく座りやすい。

 金曜日の夜だから何人か客がいるだろうと予想して身構えていたが、いざ入ってみると客は私一人だった。その日バーテンとして働いていたのは大学生の女性でオザケン岡崎京子が好きだという知的な感性を持つ人だった。夕方5時から勤務していたがまるで人が来ないので退屈すぎて関ジャニ∞のライブDVDを二周したという。私はなぜこの店を知った経緯などを彼女に話しながら、注文した深煎りのアイスコーヒーを飲んで時間を過ごした。彼女はその間、オザケンの天才性について語ってくれた。

 その後、お客さんが一人入ってきて、オザケンの話で盛り上がっているのを見ながら私は短歌やプレイリストが書かれたノートを見ていた。このバーでは短歌を書くと鍛高譚が、プレイリストを書くとウォッカがタダで飲めるという。私は懸命にプレイリストを考え、短歌をお題に沿って書き出した。

 最初は一人だった店内もやがて人がちらほら入るようになり、最終的には私含めて5人の客が座を占めていた。ジョージ秋山について熱く語る人もいれば、ジャンプ黄金時代の復刊号を手に取り、ジャンプ展の感想をバーテンに話す二人組もいた。この二人は湯島界隈を散策していた際に夜学バーを見つけ、ふらっと立ち寄ったらしい。そうした漫画の話で盛り上がる中、それでもノートに書きつける言葉を探していた私は周囲からすると不思議に思われたみたいだ。 

 

 話は変わるが、先ほど紹介した「遠心的な場を目指して」というテキストの中で店主は求心的と遠心的という言葉の違いを書いている。私は、以前に別のバーで知り合った人が夜学バーを教えてくれたこと、そして、上記テキストを読んで感銘を受けたことをバーテンが一対一でいる時に話した。すると彼女が言った。「それで言えば〇〇(知人と出会ったバー)は求心的な場だと思うんですよ。一方でここは遠心的ですよね」

 私はその言葉を聞いて、なるほどと思った。そして、求心的であることの息苦しさについて考えた。もちろん求心的であることは社会にとっても個人にとっても必要なことだ。というか、それが無いと生活できない。しかし、一方でそれが身分の違いや格差を生むように感じてしまう。例えば、求心的な場では先生と生徒、講師と聴衆というように上下の関係が生まれやすい。これは例えば学校や会社では必要なことではあるが、必ずしも飲みの場などで求められることでもないだろう。実際、飲みの場で講釈を垂れてくる人間に辟易したことが何度もあるが、こうした振る舞いは求心的な社会での価値観を引きずったものと言える。

 しかし他方で思うのは、別にどういう場所であろうと人間同士が関わり合い接していく中で自然と力関係は生まれていくということだ。だから、夜学バーであろうとどこであろうと求心的にならざるを得なくて、程度の差でしかないのではないか。

 夜学バーに行ったことで私は改めて、自分がどういう風に人と接していくか、どのように人々の中に溶け込みたいのか考えるようになった。そうすると私が確実だと思ってきた地盤は揺るぎ、急に周りの物事が遠く感じられるようになる。それでも私は自分が何をした方がいいかは、おぼろ気ながら知っている。その勘を頼りに、また夜学バーのような遠心的な空間に身を投じようと思う。結局、書き終えたのが遅すぎて、鍛高譚もウォッカも飲めずじまいになってしまったしね。

 ただ、こうしたことはどれも私の考えすぎかもしれない。